空港は人でごった返していた。テクニカルアクシデントとかで、もう5時間も全便が運休している。すでに離陸している筈の飛行機に乗る予定だった人々が、どんどんと空港にやってきて呆然と立ち尽くしているのだ。そう広くもない空港の人間飽和度は、間もなく100%を越えそうだった。
「駄目だな。あと5時間は復旧しないと言われた」
 シリウスが戻ってきてそう告げた。随分とラフな格好をしていて、足元はなんと素足にサンダル履きだ。しかしそんなありふれた格好をしているにもかかわらず、気の毒にも矢張りどこか浮いている。美貌というのは取り外しができないので時に不便なものだ。
「ということはあと10時間は無理だろうね」
「この島はルーピン時間で動いているからな。ところで俺の足が何か?」
「いや何でもないよ。まあ荷物は船便で先に送ってしまったし、私達は気楽に待てるね」
 空港は清潔で、高い天井のガラスから射す光は心地よく暖かい。10時間と言わず20時間でも快適に待てるだろう。私に限って言えば。
「こんな強制収容所みたいなところに10時間もいたくない。アズカバンの独房の方がまだましだ。結局行けなかった海岸がひとつあっただろう?あそこに行こう」
 シリウスは暖かい土地の海が大好きだ。犬の姿になって砂浜を駆けるのも、沖の方へ姿の見えなくなるほど遠く泳いで行くのも、もちろん人の姿で散歩するのも、ふざけて私へ海水を掛けたり貝殻を見せてくれたりするのもすべて彼の海での習慣だ。忙しい。気が向くと砂浜に世界の有名建築物のミニチュアを作製する。そのクオリティたるや素晴らしいもので、毎回集まる大勢のマグルの人々に写真を撮られている。
「うん、時間的に、海を見て帰ってきたら戻りの便が確定していそうだ」
「決まりだな」
 様々な肌の色、様々な匂い、様々な言語が混ざりあった空港の中、彼は私の手を引いてタクシー乗り場に向かった。中年男性同士が空港で手をつないでいるなどみっともないことこの上なく感じられるが、この混雑の中でシリウスとはぐれずに空港を出る自信は私にはない。トランクが背にあたり、ナップサックが頬をかすめる。誰かに足をしたたか踏まれ、また子供の足を踏みそうになって、慌てて避ける。私の手を握る彼の指の力が強くなった。私を振り返って何か言ったようだが、おそらく掏りに注意とかそういう内容に違いない。財布はトランクに詰めて送ってしまったと言ったらどんな顔をするだろう。
 混乱しているタクシー乗り場で、何とか捕まえる事の出来た1台に乗って、私とシリウスは空港を脱出した。
「どう考えても間に合わない」
 シートに落ち着いたシリウスは突然謎めいた呟きをもらした。
「何が?飛行機?海岸でイベントでも……」
「3月10日」
 私は反射的に微笑み、微笑んだまま考え、思い出すまでのタイムラグを見事に誤魔化した。
「……いや、お気遣いなく」
「3月10日の朝にスタートするように家に魔法を掛けておいたんだ。あれが全部無駄になるのはさすがの俺も少し堪えるな」
「そうか、見られなくて残念だ。本当に。今年は何だったんだい?」
「リーマス、通じなかったジョークの内容を口頭で説明するのはむなしい。不発の仕掛け魔法の中身を説明するのも同じだ」
「そこをなんとか。想像力で補うよ。とても見たいのに、この島には暖炉もポートキーもない」
 そっぽを向いているシリウスの顔を覗き込む。彼は親しい人間の頼みごとには大変弱い。
「……今年はホラーハウスだったんだ……色調とかすごく凝った。ルールは声を出さないこと。まず最初に大蜘蛛が出る」
「成程!新機軸だね。しかしそのルールでは私は負ける気がしない」
「うん、そのあと斬首された生首の列やら黒い人影やらウジのわいた死体やら色々出るが、それはまあお前を油断させるための囮だ」
「というと」
「階段で、哀れな飢えた小さな女の子の霊がお前の袖を引く。とてもかわいらしい。しかし突然逞しい母親の霊が出て、酷い折檻を始めるんだ」
「・・・・・・」
「しかしもしかするとお前はそこでも声をあげないかもしれない、一応用心して食堂にもうひとつ」
「なにがあるのかな?」
「最愛の者の両断された姿が」
「ええと……それは……私の場合…………君が?」
「あるいは黒犬だな」
「・・・・・・」
 私は少し考えた。そのプレゼントは、普通激怒する人の方が多いのではないか?という気がした。私は怒りはしないがちょっと不思議な気持ちになりそうではあった。しかし手段に耽溺して目的を忘れるのはシリウスの気質のうちの一つだ。私にはそれが欠点だとは思えない。
 ただでさえ明るく晴れていた空が更に激しく輝きを増して、我々の眼前に海があった。
 藍色の鏡に世界中の森の緑を映しているような見事な色。凪いだ海面。裸足になって砂浜を歩みながらシリウスは私にグラスを渡した。贈答用らしい、洒落たペアグラスだ。
「グラス?」
 目の前に掲げてまじまじと観察したが正真正銘本物のガラスのフルートグラスだった。幻覚ではない。たぶん。
 少し笑うような表情で、次に彼は小型のシャンパンの瓶を差しだした。栓は空いている。
「一体いつ?気付かなかった」
「空港には案外色々なものが売っている」
「しかし……支払いは?」
「勿論支払った。ポンドで」
 昼の光の下のシャンパンは、夜に飲むものよりも健康的な飲み物に見えた。泡の一粒一粒が鮮明に見える。
「半日ほど早いが誕生日おめでとうリーマス」
「……ロマンチックなことをしないと死ぬのか君は」
 私はおかしくなって笑った。
「うん、でもありがとう。昼間の海で飲むシャンパンなんか初めてだ」
「チーズもある。立ち食いはややロマンチックではないが」
「もらうよ。ところでホラーハウスのラストだけど、悲鳴を上げた私は最終的にどうなるのかな?」
「家の地下に建造したローマ風の浴槽に落ちる。そこへ俺が奴隷風の扮装をして飲み物を持って現れるという段取りだ」
「・・・・・・」
「あの風呂は再利用できるな。帰ったら入ろう」
「埋めなさい」
「掘るのに時間がかかったんだぞ」
「いいから埋めなさい」
 シリウスはあの家が借家だという事を忘れている。私は怖い顔をして見せた。しかし長くは続かない。まったくこんなにもいじらしいロマンチストと一緒に居て、幸せな気持ちにならない人間なんか、この世界にいるだろうか。




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