「よくある日常1」






 モーテルに到着して、自分の部屋で着替えを済ませたエリックは明日の予定を相談するために隣室のチャールズの部屋を訪れた。ノックをしても返事がないので、彼はごく当たり前の顔をして錠のボルト部分を動かし、堂々と入室した。
 チャールズはベッドの上にうつ伏せに伸びていた。安手のミステリの死体のようだった。見たところ、部屋に入ってそのまま倒れ込んだようだ。
「どうした?体調が悪いのか」
「君……鍵の閉まっている部屋に勝手に入るのは良くない癖だ」
「ノックはした」
「うーん……まあいい。体調が悪い訳ではないが夕食は要らない。明日は7時に出発しよう。以上。出る時に錠を元の状態に戻してくれ」
 どこからどう見ても個人主義以外の何者でもないエリックなので、何も問わず部屋を出ていくだろうというのがチャールズの読みだった。しかし意外にも靴音はせず、しばらくの間があってベッドのスプリングが軋んだ。うつ伏せたままのチャールズにも、彼がそこへ腰を掛けた事が分かった。
「体調が悪いのでなければ何だ」
 寮監か軍曹のような問いかけに、息を吐きだしてチャールズは答える。
「ちょっと落ち込んでいる。明日には浮上するから君に迷惑は掛けない。大丈夫だ」
「落ち込む……?」
「今日のスカウトは失敗だっただろう」
 声の小さくなったチャールズに、エリックはしばらく瞬きをする。
「ああ。しかしスカウトが上手くいかなかったのは今日が初めてじゃない」
 本日の彼等は、ショットガンを持った中年の男に追われるという災難に遭っていた。勿論銃器を持ち出される前にチャールズはそれと察することができたし、エリックがいる限り、どんな弾丸であれ彼等を傷付けられない。農場主のショットガンは水浴びをする象のように形を変え、2人が怪我を負う事はなかった。
「僕がうっかりしてたんだ。南部の人は僕のような容姿、服装、喋り方を好まないって知ってたのに。アプローチを変えるべきだった……」
「そうなのか?」
「そうなんだ。トウモロコシ畑の中を片道5時間も運転したのに。僕の不注意で全部無駄になった……」
「意外だな。失敗をそんなに気に病むとは。お前はもっと自信家なんだと思っていた」
「自信家だよ。だから反動で異様に落ち込む。レイヴンにもよく言われるんだ。でも慣れてるから、数時間たてば元に戻る。気にしてくれてありがとう。君は食事に行ってくれ」
 チャールズはなるべく毅然とした声に聞こえるよう努力して発声した。今度こそエリックは部屋を出ていくだろうと思った。どっぷりと甘い自己嫌悪の海水に頭まで浸って、そして疲れたら眠ってしまおうとチャールズは考えた。しかし部屋は静かだった。足音の一つもたてずに彼は立ち去ったのだろうか?小声で彼は同行者の名を呼んでみる。
「……エリック?」
「ああ。まだ居る」
「どうかしたのか?小銭がないとか」
「いや、落ち込んだ人間に掛ける言葉を知らないな、と気付いて考えていた」
「一、二度くらいなら人を励ました経験もあるだろう」
「俺の知っている人間といえば小太りで年寄りの党員どもばかりだ。どこに人を慰める機会がある」
「そうか……落ち込んでいる人は、とりあえず話を聞いてあげるのがいい」
「分かった。じゃあ話せ」
「それじゃ尋問だよエリック」
「何か話して下さい教授」
「ああ、そうか。そうなるね。……じゃあ話そう。今回の失敗は完全に僕が浮かれて舞い上がっていたからだ」
「そんな風には見えなかった」
「楽しかったんだ。交代で運転して、他愛ない話をして。タイヤ交換をしたり、給油に苦労したり」
 長旅の間の会話で、チャールズはエリックの様々な側面を知った。
 彼はブラックジョークを好むようだったが、ぶつけたり落としたりといったチャールズの単純な失敗にはよく笑った。
 そして車の整備や給油に関して、まったくチャールズを当てにせずに1人で手早く淡々と作業を進めた。それはチャールズの作業能力を低く見積もっての事というよりは1人で生きてきた彼の習慣だったのだろう。大人の男と児童が同居しているような奇妙な個性だった。
 彼は書物でカバーできる範囲の知識は広いジャンルに渡って備えていたが、それ以外の部分はごっそりと欠落していた。たとえば若者が好む流行歌であるとか、定番の下品な小話や、有名なTVプログラム、パーティーでする類のゲーム等。
 チャールズの語るそれらの話を、少し首を傾けてエリックは聞いていた。集中する時の彼の癖だった。1つの単語を20のヒントで当てる会話ゲームを彼は気に入り、チャールズが音を上げるまで3時間延々と続けた。トウモロコシ畑のうだるような熱気と、他愛ないゲームに夢中になる最強のミュータント。それは不思議な時間だった。
 むかし子供の頃にレイヴンと空想した「もし近所に引っ越してきた家族に子供がいたら3人で何をするか」という計画を脈絡なくチャールズは思い出していた。
「それで僕は注意を怠った。10キロ手前で相手の心を読む事もできたのにそれをしなかった」
「率直に言わせてもらうなら、植物の成長を促進させる能力というのは、あまり利用価値がないんじゃないか?畑で使い続けるのが誰にとってもベストだと思うが」
「うん……頭では分かってるんだ。でも感情がぐるぐる回って理詰めで考えられない。ごめん」
「どうして謝る」
「君は絶対落ち込んだりしない。この手の弱さは不快かと思って」
「弱さ?お前が?」
「ああ……能力的な強弱とは違って。精神的な」
「誰でも失敗はする。俺もコイン1枚浮かせられず、人生が変わったことがある」
「エリック!」
 エリックが部屋に入ってから全く動かなかったチャールズが勢いよく顔を上げた。
「その話を僕は知ってる。でも同列で語っていい話じゃない」
「あの一瞬でそこまで読めたのか。凄まじいな。しかし同じ失敗の話だろう」
「違う。ごめんエリック」
「お前がそんな顔をする理由が分からない」
「……僕もうまく言語化できない。でもごめん」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 チャールズは、満身創痍の動物が、無心に歩むさまを連想していた。エリックは他人の過去の話で壮絶に悲しそうな顔をしている男を、ただ不思議な気持ちで見ていた。2人の間には越え難い深い溝があったが、しかしこうして対峙している。
 少なくとも今のところ時間は味方だった。もっと理解出来る筈だし理解したい、つまらない事で落ち込んでいる場合ではない。そうチャールズは思った。
「そうだ、友人を慰める時には頭を撫でるんだ。やってみてくれエリック」
「頭を?」
「そう。元気を分けるつもりで熱意をこめて」
 磁力を操る時の勢いとは似ても似つかない辿々しい動作で、エリックの右手が伸ばされる。けれど掌はやがてチャールズの髪に触れ、蛇口をひねるようなそっけない動きではあったけれど、彼の毛髪を2、3度かき回した。
「こうか?」
「そうそう」
「なぜ頭を撫でられると元気が出る?」
「東洋医学の範疇かもしれない。まだあまり知られてないけど『気』とか『ツボ』とかいう考え方が東洋にはあるようだ」
「さっぱり分からない」
「あと、髪にキスしたりもする」
 チャールズの頭を攪拌していたエリックの手がぴたりと止まる。
「……本当に?」
「学生なんかはよくやる」
「男同士でか?」
「うん。アメリカじゃ当たり前だ」
「……そうか」
「いや別に今ここで要求はしないよ」
「下を向け」
「……うん」
 しばらく間が空いて、つむじに暖かいものが触れたとき、チャールズはいつもの笑顔になった。一体エリックはどれ程困った顔をしているのだろうという興味はあったが、せめてもの礼儀で顔は上げなかった。そして「ごめん、嘘だ」と正直に告げた時の彼を想像して、チャールズはますます笑顔になる。
 そうとは知らず、俯いたまま動かないチャールズの髪にエリックは二度目のキスをした。






   「よくある日常4」





 僻地を車で移動している途中で2人は取り囲まれた。よく太った、前時代的な服装の男女が手に手に鋤や銃を持ち、道端で休憩中だった2人の前に並ぶ。時間は夕暮れ時で、元より昼間であっても通る車などない道だった。松明を掲げる善男善女の目は血走っている。口々に喚いている言葉を何とか聞き取ると、「人間ではない」であるとか「悪魔」とか、そういう種類の危機感を彼等は2人に対して訴えているのだった。どうやら力を使ったところを目撃されて、噂が広まったようだ。
「違います。我々は旅行者です。速やかにここを離れますので下がっていただけませんか?車に乗って帰ります」
 おそらくは通じないだろう、と予想はしていたが、チャールズの弁明は見事に通じなかった。更にボリュームの上がった彼等の怒号に、穏やかな声はかき消される。
「チャールズ。これは下手すると殺されて埋められるぞ」
 エリックは冷ややかですらある落ちついた視線をチャールズに戻して言った。
「60人?70人?お前でもさすがに無理だろう」
「少なくとも一度には難しいね」
「あの給水塔を奴らの真上に落とすか?」
「僕がそんな虐殺を許可するとでも?」
 周囲の農夫たちを余裕を持って観察していた彼等だったが、弓を持った人間が何人か近付いてきたのを見て、俄かにエリックの声が緊張を帯びる。
「チャールズ!やじりに金属が使われていない!」
「そのようだね」
「いま何世紀だ!原始人め!」
「なんであれ差別はよくない!」
「説教はあとにしろ!」
 エリックは咄嗟にチャールズの頭を抱え込んだ。ミュータントの中でも最高に完成された能力を持つ彼を、たかが人間ごときに傷つけさせてたまるかという気持ちが彼にはあった。
「エリック!何もするな!僕に任せるんだ!」
 大きな力を使う時に上がるエリックの右腕をチャールズが捕えた。薄い爪が手首に食い込む。同時に周囲の男女が同方向に注視し、金切り声をあげて駆けだした。
 狂気の声が流れていく。ひとつの方向へ彼等は恐ろしい形相をして走っていった。銃を撃った者がいたらしく、荒野に音が反響する。
「……走って逃げる僕らの姿を見せた。あの人数ではそれが限界だ。静かに。振り返られたらおしまいだ」
「数秒であの人数を……?」
「感心してくれているなら申し訳ないけど」
 そう言ってチャールズはエリックの胸に伏せていた顔を上げた。
「……!!」
「君でも驚いたりするんだ」
 見上げてきたチャールズの顔の下半分、シャツの襟、ベストに至るまで鮮血に染まっていた。片方の目も真っ赤に充血している。眼球が赤身の肉に変質してしまったようだった。
「なにか当たったのか……?」
「能力を越えた事をすると僕はこうなる。血管が切れたんだよ。鼻血だ。目の充血も同じ理由。しばらくしたら物凄い頭痛も来る。その前に昏倒するけどね。幻覚を植える時間が30分あれば余裕だったんだけどなあ。今回緊急だったから」
「それでも凄いことに変わりはない」
「買い被っちゃだめだ。僕の能力なんか無人島に行ったら何の役にも立たない」
「・・・・・・」
「誰でも出来る事と出来ない事がある。その場その場で役に立つ者が入れ替わるだけだ。人間でもミュータントでも男でも女でもどんな人種でも同じだ」
「……啓蒙タイムか?」
「すまないが、ここからの運転は全部君だ。車までは自分の足で歩きたいが、無理かもしれない。急ごう。彼等が戻ってくる」
 チャールズはそう言ってエリックから離れたが、車とは全く違う方向に歩き始め、3歩ほど進んだところでばたりと横に倒れて動かなくなった。エリックが手を伸ばして受け止めようとしたが間に合わなかった。
 髪についた土を払って彼を抱き上げてやりながら、なぜ彼は能力に相応しく支配者のように振舞わないのだろう、とエリックは心底訝しんだ。彼ならばもっと傲岸に生きてもいい筈だと。
 銃声と叫び声が、遠くの夕闇から響いていた。