海辺にて


 私はその冷たくて固い場所に横たわっていた。もう、指の一本だって動かない状態だった。
 究極に疲れている時というのは、奇妙な具合に自分の周りだけライティングが違って見えることがある。妙に明るかったり。妙に暗かったり。私はそれを不思議だと思った。
「虹彩がうまく調節できなくなるからでは?」
 低くて優しい、この世で一番聞き慣れた声がした。
 ああ、君かと私は笑う。
 それは私に残された、ただ1人の友人だった。彼は私の背を抱くように座っていた。誠実なる我が友パッドフット。
「君は何でも本当によく知っている。世の中に知らない事などないんじゃないか?」
「幾つか、知らない事もある」
 彼は静かにそう言って、私の顔を見下ろしたようだ。かすかに撫でられる髪。
 ひどく気持ちが良い、と目を閉じたまま言うと彼が笑ったような気配があった。しかし私は構わなかった。何故かその時の私は思ったままを口にすることに、ためらいがなかった。
「こうやっていると……」
「うん?」
「いや、うまく言えないな」
 とても不思議だった。
 こうしていると全身の血が急速に変わっていくのを感じる。血液が湧き出て古い血と新しい血が入れ替わっているのが目に見えるようだ。
 彼の触れている背から。腕から。
 あんなにも疲弊していたのに。もう動けないと思っていたのに、私は今、彼へ手を伸ばしたいと思っている。瞼も、もうすぐ開くだろう。彼の眼を見るために。
 いっそ切り落としたいくらいに重さを感じていた手足が、ゆっくりと元の状態に戻りつつある。
 私はまだ動ける。
 私はまだ歩ける。
 まるで魔法だった。
「意志が、全てだからだ」
 質問をしていないのに彼が答えたので、私はそれが現実でない事を悟った。しかし落胆する気持ちはなかった。
「それは要するに、私が君の事をとても愛していると言いたいのかな?体がどんな調子であろうと関係なくなるくらいに」
 違うのか?とシリウスは訊ねた。どうだろう、と私は笑った。
 その通りだ。などと例え夢の中でも言う訳にはいかなかったので。
「体の支配者は脳だ。他の器官はその奴隷に過ぎない。意志の望むことをただ黙って果たすだけの道具だよ。絶対王政だ、リーマス。そして王は王の責務を果たせ」
 遠くを見るような調子で、彼がそう言った。あの表情をするとシリウスは突然に闘う者の顔になる。しかし声は優しいままで、囁くように小声だった。
 ジェームズの受け売りだろう。と私は泣きたいような気持ちになって言った。
 そうだとも、と彼。
「起きろ。リーマス。帰るんだ」
 君はいつも正しいことを言う。正しいことしか言わない。それに対してどれほど私が感謝しているか、どれほど私が憎んでいるか、どれほど私が憧れ、恐れ、かつ好ましく思っているかを君はきっと知らないだろう。
 最後にもう一度、彼の指が私の髪を大切そうに撫でた。

 目を開けると、世界は網膜を灼くほど白い日差しに照らされていた。私は砂浜の上に倒れており、衣服は濡れ、体は冷え切っている。  髪の中を蟹が這い進んでいた。ああ、これかと私は思う。
 私は昨夜、海辺の館の塔から身を投げた。私は判断を誤った。自分の正体が知れる事は有り得ないと思っていたが、初期の情報戦において我々は遅れをとっていたらしく、私は彼らに取り押さえられた。優雅で物静かでそして狂った目をした人々の集団に。窓から海へ飛び降りるのをあと少しでもためらっていたら、私はもう生きてはいなかっただろう。
 落下しながら、着水のショックで骨を折らないように浮遊の魔法を使ったし、冷水で死なぬように温度保護の役割をする魔法も使った。空気の膜も張った。自分がここまで機敏で有能な魔法使いであった事は今までにない。生き残るために私は機械的にそして極めて正確に幾つもの魔法を使った。これ以上ないくらい悪い条件下だったが、私は自分の魔法が失敗するとは思っていなかったし、自分が死ぬような気もしなかった。
 舌はなめらかに呪文を唱えた。
 そして私は生きている。起き上がると、髪から砂と、蟹が地面へ落ちた。確認する手段がないので分からないのだが、今の私はおそらく血の気がなく、唇も真っ青、髪は乱れ真冬にずぶ濡れで、まるで水死体の如き姿に違いない。
 しかし、ぼろきれのようになっていながらも惨めな気持ちはなかった。
 生きている自分が、手を打って笑いたいほど誇らしかった。
 これほどまでして生きて帰らなければならない事を幸福だと思った。
 今頃きっと彼は、玄関のあたりを意味もなく円形に歩いているに違いない。少しも内容など頭に入っていないにも関わらず、新聞を握って。そんな彼に、北のほうは少し寒かったという話をしよう。キッチンにブランデーが残っていれば、それを入れた紅茶を飲みたい。
 右足を一歩前へ出した。次に左足を。大丈夫、歩ける。
 私は、指先から水滴を滴らせながら、ゆっくりと歩きつづけた。太陽は私を白く照らしながら、少しずつ高くへと昇っていった。






無敵先生。
彼はシリウスより先に死なないと決意したようなので。
元々は どことな〜く死にたい気持ちがあった彼にとっては、
究極の愛の証というか。

でも書きたかった感覚は、書けてない気がします。
痛みとか疲労のシグナルを脳が勝手にシャットダウンして
神経に天然の興奮剤をぶちこんでくれちゃうんだよね。
そう、この豆腐みたいに軟弱な器官が人体の支配者なんですよ。
憎むのも恋をするのも、この場所なんだなーと
時折思います。



BACK