要請事件


 二十歳を過ぎれば自分達の関係は大人のそれに変化するのだとリーマスは考えていた。身の回りの人々も皆そうしているのだと、周囲を見回すことなしに彼は思いこんでいた。

 しかし彼の20歳の誕生日が訪れ3日が経ち1週間が過ぎても、リーマスとシリウスの生活に変化はなかった。おはようのキスとおやすみのキス、そして時折の抱擁と。シリウスは相変わらず紳士的で優しい。
 リーマスの想像ではシリウスの側から何らかの申し入れがあって、それは始まる筈だった。リーマスは最近一日一度ほどの頻度で悩む。
 もしかすると自分の予想していたルールは間違っていて、後から20歳になった方が働きかけをするべきなのか(シリウスは先に20歳の誕生日を迎えている)、それとももうシリウスには特別な感情はなく、自分達は単なる仲の良い友人としてこの家で暮らしていたのかもしれない、と。
 あるいは。
 それについて考えるのをリーマスは敢えて避けていたのだが、彼はとある伝染病の保菌者である。それが性交によって感染しないというのは近年に立証されたのであるが、シリウスがリーマスの病を気にしているという事もあり得た。
 もしそうだとすればリーマスはすぐにでもこの家を出るつもりだった。これまでに書物で得た知識によれば、恋人同士にとって肉体関係(男女間のそれですらリーマスは朧気にしか知らなかったのだが、男性同士のそれともなると頭の中で人体2つをパズルのようにくるくると回して何をどうするものやら想像してみるくらいしか、彼にはアプローチの手段がなかった)というものは随分と重要な要素であるらしかったからだ。折角20歳になった健康な青年だというのに、自分の病の所為でその機会がないのではシリウスが不幸である、とリーマスは真面目に考えていた。
 この場合速やかに為すべきなのはシリウスの意思確認であるが、リーマスはシリウスと性交について話し合うのは気が進まなかった。それは2人で殴り合うのと同じくらい、リーマスにとって避けたい事態だった。
 出来ればソフトに事を進めたいリーマスは、夕食のあとでそっと手を握ってみたり後ろからシリウスにすり寄ってみたりしたのだが、シリウスは快活な笑顔で新しいバイクの話や最近の株式の話などをする。そうなると最早リーマスに打てる手は無く、彼はこの手のやりとりに関してあまりにも自分の持ち札が少ない事に唐突に気付き愕然とした。
 何を考えているか分からず、しかも察しの悪いシリウスを恨んだりはしなかったが、ともかくリーマスは困っていた。


 ある夜の入浴中、閃いたというのか魔が差したというのか、リーマスは昔に見たマグルの恋愛映画を思い出す。それは女性が意中の男性の部屋へバスタオル1枚で入っていくシーンだった。ちょびヒゲを生やした男性は一瞬息を呑み、我を忘れたように女性を抱きしめ(バスタオルは床に落ち)画面は暗くなった。
 そうだ、あれだ。とリーマスは顔を上げる。ともかくバスタオルだ。バスタオルが床に落ちれば全ては解決するはずだと。自分が風呂上がりの格好でシリウスの部屋を尋ねるなど想像しただけでも気が重かったが、大切な友人の将来が懸かっているのだから無精は許されなかった。少し悩んだ後、リーマスは腰にバスタオルを巻いて浴室を出る。
 しかしシリウスの部屋の手前でふと振り返ると点々と水が床に垂れていて、こんなに濡れた人間に部屋を訪れられたらどんな気持ちがするだろうとリーマスは躊躇した。しかしうかうかしていると身体が乾いてしまう。そうなると今度は意味もなく紀元前の仮装をしてシリウスの部屋に闖入することになってしまうのだ。それよりはズブ濡れの訪問の方が幾らかはましだと考え、リーマスは反射的にノブを回す。
 ノックもせずにドアを開けたリーマスは、シリウスに「何事か」と質問された場合どう返事するのか一切考えていなかったことを思い出した。水が背中をつたう。
 ベッドの上で読書中だったらしいシリウスはちらりと視線を上げて
「石鹸か?」
 と尋ねた。
 バスタオルを胸に当てた女優を見た男性は、何か物を落としたりして動揺を表現していた筈だ。少なくとも「石鹸か?」などとは言わなかった。戦争ごっこをしていたホグワーツ時代のように「作戦タイム!」と叫んで逃げ出したくなったリーマスであるが、ここで退却は許されない。彼は親の敵討ちの場面の如き真剣な目で首を振った。
「じゃあ何だ」
 心の中で恩師や友人達など色々な人間の応援の声を聞きながら(幻聴である)リーマスはゆっくりとベッドへ近付き、シリウスの隣に腰掛ける。シリウスは本に視線を戻してリーマスのためにスペースを空けてくれた。それはもう十分広すぎるほどに。
 外は豪雨で、風の音も雨の音も華々しい。いつもなら窓に張り付いて豪雨を鑑賞するところであるのに、一体どうしてこんな事を自分はしなければならないのかと瞬間リーマスは哀しくなった。
 彼は小さく息を吸うと思い切って本を保持しているシリウスの左手に口づけた。いくらシリウスが鈍感でもここまですれば何かを感じ取るに違いないとそう考えて。
 しかしシリウスは洗ったばかりの犬を撫でるようにくしゃくしゃとリーマスの濡れた髪を掻き回しただけだった。視線は本から1秒もそらされない。よほど面白い場面にさしかかっているのだろうとリーマスは考えた。しかしここで「何を読んでいるのか」と尋ね、シリウスが書物の粗筋など説明を始めたら、「読書についての雑談をするシリウスと紀元前の人間」になってしまうのは明白である。
 これならいっそ食卓で性交について率直に質問した方が話が早かったかもしれないなどと後悔しながら、リーマスはたどたどしくシリウスの胸の上に顔を伏せた。
 シリウスの目は相変わらず本のページに向けられたままだった。しかも先程より横を向いてすらいる。一切の努力を受け付けて貰えず、さすがのリーマスも腹を立てた。シリウスの手から本を奪って横へ置く。彼の長い睫が2、3度揺れ、そしてふいと右へ逸らされた。
 自分達は何か喧嘩をしていたのだったか?とリーマスが記憶を掘り返そうとしたとき、シリウスが同じ事を尋ねた。
「何か怒っているならきちんと言葉で言え」
 そして彼はヘッドボードにあった上着をリーマスに着せ掛けた。言葉の内容から検証するとシリウス側は怒っているのではないらしい。ならば何て鈍感なんだろうとリーマスは目眩のする思いだった。
「シリウス、私と……」
 性交するつもりがあるのかないのか。
 という問いかけは服を着ていても出来るし、第一それでは尋問である。
「お前と?」
「いや、私は……」
 君と性交がしたい。
 それは事実とは若干違うとリーマスは思いたかったし、言うのは死んでも嫌だった。
「落ち着いて聞いて欲しい」
「俺は落ち着いている。どちらかと言えば落ち着くのはお前だ」
「ああ、そうかもしれない。ともかく私を……」
「お前を?」
「……その、君の好きなようにしてくれないか?」
 勿論、何かしたいことがあればの話だけれど、と首をほとんど45度下げてリーマスははっきりと言った。
 無音。
 強い雨の音。
 不安になって顔を上げたリーマスが見たのは異様なシリウスの顔だった。彼は大変に造作に恵まれた男だったので、笑っていても泣いていても鼻を垂らしていてさえ、ともかくいつも完璧に美しかった。しかしその時のシリウスの顔は
 明らかに崩れていた。
 目や鼻や口などのパーツが居場所を見失ってワンダリングを始めたかのような、こんなに滑稽な顔をしたシリウスをリーマスは見たことがなかった。
「シリウス?」
「済まないリーマス!!」
 シリウスは顔を覆って絶叫した。
 その声があまりに哀切極まりない調子で、リーマスは家を出る最後の時まで冷静さを失わないようにと呼吸を整え身構えた。
「何……?」
「俺は今と同じ状況の夢を47回も見ているんだ。これが夢でないと証明してくれ」
「は?」
 先程本を読んでいた時の冷静さは火星の辺りへ飛んで行ってしまったのか、シリウスは震える指で口元を覆っている。顔色はブラジルの蝶よりも青かった。
「なあ、これは夢だろう?」
「夢じゃないよシリウス」
「夢に決まっている。あのリーマスがこんな事をするはずがない!」
「あの?あのリーマスというのは?」
「鈍感で奥手で妖精より浮き世離れしたリーマスという意味だ!」
「鈍感なのは君だろう!やっと二十歳になったから私は……」
「ああほら、言っている内容がちっとも分からない!」
「どうして!?社会常識の話だ!」
「それにリーマスは俺に特別な感情はないんだ!」
「―――そんな訳ないじゃないか!しっかりしてくれ!」
「いいや騙されないぞ!これは夢だ!」
「しつこいな君は!何なら殴ってみようか?」
「駄目だ。夢で3回殴られたことがある。3回とも痛かった!」
「分かった。これが夢だとしよう!だから何だ、君は君の好きなことをすればいいだろう!」
「馬鹿!朝になったらお前と朝食を食べるんだぞ!顔が直視できない。どんな凄い罪悪感があるかお前は知らないくせに!」
「えーと、そうなのか。いや、気にしなくていいよ、私も気にしない」
「……なあ、都合のいい俺の夢じゃないのか?お前はリーマスなのか?」
 シリウスと自信というのは永久にセットで、2つは離れることがないと思っていたリーマスだが、そうでもないらしいとその時初めて彼は知る。そして自信という羽根を失ったシリウスも何故かリーマスにとって不思議に魅力的なのだった。
「私はリーマスだよ。そして君のものだパッドフット」
 今までの数年間とても楽しかった。これからもよろしく、とリーマスはシリウスにキスをした。
 シリウスは恐る恐る起きあがり、リーマスを抱きしめる。リーマスもそっと彼の肩へ頭を寄せ目を閉じた。これでようやくバスタオルが床に落ち、暗転するのだろうかと考えたときシリウスは叫んだ。
「まず頭を冷やしてくる!!」
 リーマスが振り返ったときにはシリウスの姿は部屋にはなかった。そして数秒後、玄関の閉まる大きな音がする。慌ててリーマスが窓の外を見ると、走っていくシリウスの姿が見えた。すでに小さく遠い。
 外は激しい雨が降っていた。
 結び目がほどけてリーマスの腰からバスタオルが落ちた。


 記録的な豪雨の中、シリウスが戻ってきたのは明け方だった。何故か犬の姿で玄関に倒れ込んだ彼は高熱を発し、それから4日間ほどベッドから立ち上がれなかった。リーマスは精一杯看護をしたのだが、お互いに目を合わせるのが妙に恥ずかしく、その会話も何故か途切れがちになるのだった。
 この熱が引いたら、と否応なく考えてしまうせいなのかもしれなかった。
 尤も、なかなか熱は引かなかったのだが。








あらすじのバレているものを(しかも元々大した筋がある訳でもない)
書くのはなかなか度胸が要りますが、精一杯頑張りましたー!

あれ?3話完結じゃないのかよ、次は陽性事件つってなかったかアンタ?と思われた
優れた記憶力の方、いかにもその通り。あー、えとー、2話と3話の間はこんなですよー
と後書きにチラと書きましたら
「先生がシリウスさんに裸でせまるなどという美味しいシーンをあとがきで書いてしまうなんて!」
「可愛い若い死んでない!それから鹿!」
「シリウスの下克上の瞬間を是非この目で」
という電波をキャッチしましたので、ええと、その、恥ずかしながら書いてみました。
(だってシリル界でいつも私達を楽しませて下さっている方ばかりなんですよ…)
このシリーズは恥ずかしいので正気では読めない!という人には済まない事です。
次回で終わりです。(更新的には、ちと先ですが)

ともかく書かれるはずのなかった話なので、見たいと望んでくださった方が
もし満足されたなら、それで私も満足です。珍しくオーダーメイド〜。

ここの先生は、死や別離や裏切りを経験せず学友達に甘やかされて育ったのでしょう、
通常版の先生より装甲が柔らかそうだ。ラッキーだなあここのシリウスは。

2003/09/24


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