The Moon And Peking Duck 夕食は何やら珍しい料理だった。加工した鳥肉と珍しい野菜の細切れ、それに特殊なソースをかけてライスペーパーで包んで食べるどこかの国の料理。そして炒めた米。それと茹でたニンジンと。言うまでもなく前者はシリウスが作った物で、そして後者はライスペーパー作りに苦戦する彼から「何か野菜の料理を」と依頼された私が作ったものだ。単に輪切りにされただけの状態で湯気を上げるそれを見て、シリウスは明らかに笑うのを我慢している顔をした。私は何か言いたい事があるならどうぞと促したのだが、彼は首を振るばかりだった。 その珍しい鳥の料理も茹でたニンジンも申し分なくおいしくて、私達はビールを飲みながら色々な話をした。シリウスはどうしてか突然ベケットの不条理劇の話を始めて私は拝聴した。 内容が明確でない物語は私は苦手だし、シリウスは尚更そうだろう。しかし芝居にいらいらさせられたという彼の体験談は決して退屈なものではなかった。観劇のフラストレーションで中腰になりかける20代の彼の様子がありありと想像できて、私はテーブルで笑いに笑った。そして満腹とビールと大笑いのせいで酷い眠気に襲われた私は、ソファに横たわって目を閉じた。食器を片付ける音と彼の皮肉が遠くから聞こえてきたのを覚えている。 そして私は自分の寝室で目を覚ました。おそらく彼が運んでくれたのだろう。時間は夜の8時だった。 すまない事をしたなあと、私はあくびをしながら考える。食事の支度と、後片付けに加えて私の片付けまでさせてしまった。 「お前はいつも寝てばかりで、一日の大半、俺は置いてけぼりだ」 そう言って、彼は眠る私にキスをした。 いや、それともあれは夢だったのだろうか。 窓から月を見上げる。月は明るく、すべての物にぼんやりと光の輪郭が出来るようだった。鈍い明かり。独特の。 ライスペーパーを使うあの珍しい料理を食べるところも夢だったのでは?という考えがふと浮かぶ。私が自分の知識の中からベケットの不条理劇の話題を選択して夢の中で披露するのは妙だ。しかし今思えばシリウスがフランスの不条理劇の話をするというのも同じくらい妙である。 あの夕食自体が夢だったとすると、はたしてどこからが夢だったのか分からなくなる。昨日2人で散歩に出かけて、新しい信号機を発見したのは現実だったのか。一昨日にシリウスが剪定鋏で指を傷つけてしまったのはどうなのか。 或いは彼がアズカバンから戻ってきたことが? 私は反射的に床に足を下ろした。 私は1人で早い夕食を済ませ、そして1人で目覚めた。ただそれだけの話なのでは?という恐ろしい空想が、月の光に暖められてどんどんと膨れ上がる。在り得ない事ではない。私は時折詳細な現実生活の夢を見る。 頭の中で、とある空想が繰り返される。シリウスの寝室をノックする私の手。返事がなく、静かに回されるドアのノブ。扉が開け放たれると、月光以外は何もないがらんとした部屋が広がっている。家具を置かれていた形跡は一切なく、埃だけがやわらかく床を覆っている。その中に立ちつくす私。 万が一の場合に備えて最悪の空想を繰り返すのは私の癖だ。しかし今回は勘弁してほしかった。いくら空想とはいえ、そんな陰鬱なものは見たくなかった。自分の空想に追い立てられるようにして、私はシリウスの寝室へと向かう。 空想の私の手と、現実の私の手が目の前で二重写しになってドアをノックした。 中から「どうぞ」と声がした。私は静かに息を吐き出す。 部屋の中にはシリウスの机があった。シリウスの衣装戸棚も、シリウスの書架も。そして寝台の上で、彼は読書をしていた。 「読書中失礼。女教師の本かい?」 私がそう尋ねると、彼は笑って「女囚の本だ。お前の好きな」と答えた。もちろん彼の手の中にある本のタイトルは違う。もっと真面目なものだ。 「どうした?もうお目覚めか?」 「怖い夢を見て、それで目が覚めた」 まるっきり冗談という訳でもなかったのに、彼は吹き出して本を横に置いた。 「白髪葱が悪かったかな?それともニンジンが?」 ノックをして彼が返事をした時点で目的は果たされたのだが、どうごまかすのが一番無難だろうと考えて私は横たわる彼の隣に腰を下ろす。「いまの君の存在自体が夢かもしれないという気がして怖くなった」とは、さすがの私も告白し難い。 「予告なしで申し訳ないけど、どうかな」 微笑んでそう言うと、意図が通じたらしく彼は覿面に目を泳がせて「北京ダックなど出すのではなかった」とそう呟いた。今日食べた料理は中華料理だったようだ。 それにしてもこういう関係になってもう数年が経つというのに、彼は相変わらずそれに抵抗があるらしい。まるで減るとでも言わんばかりの惜しみ方をする。 寝巻きの裾から彼の腹に指を滑らせると、いつもより胃のふくらみが感じ取れて、私はその上を何度も撫でる。先ほど食べた野菜や鳥の肉や色々なものが、まだ消化されていないのだ。 成る程リアルだ。私の夢では、こんな詳細さは在り得ない。故に彼は夢などではない。 歯は咀嚼し、胃は消化し、この食べ物を栄養としてシリウスは演劇論などを語る。ちょっと得意げないつもの調子で。なんて愛らしいんだろう。 私は説明しても決して理解してはもらえないだろうユーモアを感じて、シリウスの腹を撫でながら、彼に覆いかぶさってくつくつと笑った。 笑いに関して何らかの解説が行われるのを待っていたシリウスだが、やがて諦めたのか服の裾から同じように手を差し入れ、私の腹を撫で始めた。あわよくば位置を替わうとしているのだろうか、その触れ方は幾分作為的である。しかし近年私が以前よりは若干彼の手に応えるようになったのは、「こう触れられればおそらくこう感じるだろう」という空想で、彼の愛撫を補っているからであり、決して私の何がしかの身体能力が向上した所為ではない。その補強がなければ私の皮膚感覚は相変わらず薄ぼんやりとしているのだ。彼はその事を忘れてしまったのだろうか……いや、そういえば元より説明をしていなかったと私は思い直した。私が進んで努力して、彼の気分を害する面倒な話をする訳もない。 腹から胸に移った彼の手を無視して、私はにっこりと笑いかける。そしてキスをした。彼と交わすうちに自然と覚えた順序を丁寧に辿る。彼のように器用ではないけれど、私なりの一生懸命なキスを。 炭酸水のような細かな快楽が背を登ってゆく。次に顔を上げたとき、もうシリウスは笑顔ではなかった。すっかり素直な人になった彼は衣服を取り払われても抵抗をしない。 私はシリウスの体に口付けてゆく。何かの宗教儀式のようだと彼には言われるが、私は性急さを好まない。次にどこへ唇で触れるか好きなだけ考え、静かに口付けをする。読書と同じだ。楽しい時間は長いほうが良いに決まっている。 シリウスが首を振るので、彼の表情は髪に隠れて見えなくなってしまう。私は砂に埋まった遺物を丁寧に発掘するように彼の髪を掻き分ける。生え際からゆっくりと。そうするとすべらかな彼の額がやがて現れる。 「不条理劇の話をしないのかい?中華料理の話は?」 彼は無言で首を振る。また髪が彼の顔を隠す。シリウスはもう言葉を語れる状態ではないらしい。私は彼の話が好きだから、行為の最中に彼と会話が出来ないのをいつも非常に不便に思う。そして、あの冴えたジョークや、不条理劇の話が聞きたくてたまらなくなる。 しかし行為が済めば、勿論また彼は色々な話をしてくれるだろう。それを知っているので、私は安心してその瞬間を引き伸ばす。推理小説の謎解きの手前で栞を挟んで考える人のように、私は終わりを惜しみ、彼の声を聞く。誇り高さも、意地の強さも、攻撃性も、すべてを失って目の焦点すら合わせられなくなったシリウスを、私は抱きしめる。彼は私の名前を呼んだ。 これは夢ではない。その幸福。 そして不安になるたびに、すぐに手を伸ばして確かめられる幸福。 これ以上の幸福があるとは、私には思えない。 シリウスは息をつきながら「もう北京ダックは作らない」云々呟いている。私は笑って「ごちそうさま、ありがとう」と囁いた。 何がいけなかったのか、彼は言葉を失って私を睨んだ。 私は攻の先生の「やさしいが、酷でぇ」 という部分を表現するのに 魂を懸けております。 先生は決して鬼畜じゃないのー。 一生懸命で、優しくて、悪気はないけど、でも酷いの。 そしてそんな先生にシリウスは夢中ー(笑)。 2006/09/20 BACK |