指先の記憶


記憶というのは一体何処に存在しているのだろうか。
視覚、嗅覚、聴覚、触覚、味覚。受容媒体の違うこれらのデータ。
この身体を構成する細胞の一つ一つにそれらが存在するというのなら
人間は数ヶ月もすればすっかり別人になってしまうだろう。
3ヶ月ぶりに会う友人の顔がわからなかったり
去年の夏に着ていたシャツの在処を憶えていなかったりするのだ。
しかし実際には、「再経験」や「思い出す」といった経緯を経て
大抵の場合、記憶は上へ上へと重ねられ更新される。
そして新しく上書きされない記憶は容赦なくどんどん薄れて行く。
 
 
それなのに私は10年も前から一向に薄れることのない一つの記憶を抱えている。
 
彼に最後に触れた左手の感覚。
 
学生時代、時々思い出したように「お前の手は何故いつもそんなに冷たいんだ」と、
どこか怒ったような口調で私の手を取り温もりを分けるように暫く握っていてくれた体温の高い大きな手の。
あの日、友人の家を訪問した帰り道に、やはり思い出したように腕を取って
いつもより心持ち長く温度を移された後いつもなら離される筈の手がそのまま持ち上げられ。
甲に触れたものが彼の唇だったと気づいた瞬間、私は内心酷く驚いたのだが
気づけば相手の方がよほど驚いた顔をしていた。
その時、私の内の何かが、何かわからない何かが確かにひらめいた。
どうやらそれは彼の方も同じだったらしい。
だが二人共がそれを言葉にできないまま、私達はただ無言で並んで歩いた。
奇妙な空気のせいで別れの挨拶はいつになく言葉少なだった。
一人でゆっくり考えてみようと思っていた。
時間などいくらでもあると信じていた。
程なく平穏な日々が終わりを告げ、私達を取り巻く状況が激変する事も知らずに。
 
 
 
彼を知る私の細胞全てが新しいそれと入れ替わり
記憶の中の驚いた顔がおぼろげになり
短かった別れの言葉すら思い出せなくなって久しいというのに
今でもあの感覚だけが私の胸をどうしようもなく揺さぶる。
 
私の指先は今も冷たい。
それを暖めてくれた優しい友人はもう存在しない。
 
どこにも、いない。









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