「Close to You」 世界を何年も放浪したのちに、自分は彼を見つけるのだろうという漠然とした想像があったが、僕のその一種のロマンティズムはトニー・スタークの指によってあっけなく霧散した。 2分と30秒ほど。それが彼を探し出すのにかかった時間だった。顔認識システムというのだそうだ(メモをとった)。 スタークは父親によく似た大きな丸い目で僕を見ながらプリントアウトした地図を手渡してくれた。彼は僕への気遣いを顔には出さない。自分の善意を頑なに隠す、彼の奇妙なニヒリズムを理解するまでは幾度かの衝突もあったが今は違う。 「大丈夫だよ」 僕は笑ってみせたがスタークは無言だった。 ジェームズ・ブキャナン・バーンズを見つけたのは貸倉庫の中だった。みっしり積まれている荷物の1つのように静かに丸くなって座っていた彼に声をかけた時も、僕は彼が逃走するだろうと半分以上確信していて、窓、地下、天井とルートを想定していたのだが実際はまるで違い、彼はただじっと僕を見返しただけだった。 水の中から助け出してもらった事に感謝をした。彼は肯定も否定もしなかった。僕を覚えているかと尋ねたが無言だった。バッキーと名を呼んでも、彼は瞬きすらしなかった。 攻撃の意志のない事を示すため、両手を開いて見せながら一歩一歩近付いた。姿勢を低くしてもう一歩。野犬狩りに似ているなと思いながら一歩。靴先が触れ合う程接近しても、彼は防御の姿勢をとらなかった。今から君の右腕に触れると宣言してからゆっくり手をとると彼の体温は正常で、弱っている訳でも死んでいる訳でもない事が分かってほっとした。 とりあえず不法侵入している状態だから外へ出よう、付いて来いと試しに言ってみると、彼は機敏に立ち上がった。驚きのあまり今度は僕が彼を凝視する番だった。 まさか本当に彼が付いて来るとは思わなかった僕は、困った挙句自宅へ案内した。こんな展開はまったく想像していなかった。今頃は彼を追ってビルからビルへ飛び移り、空中ショーを繰り広げている予定だったのだ。ごく一般的なアメリカの住居に、片腕が金属の黒装束の男。申し訳ないが仮装した強盗のようにしか見えなかった。 飲み物を出したものかどうか僕は迷い、結局は水を渡した。倉庫にいた時と同じ姿勢で丸くなっている彼に色々と話しかけたが、やはり無反応で、早々に話題の尽きた僕は言った。 「バッキー、今の時代の寝具はすごいな。岩や氷と比べるのは論外だけど、むかしの硬いスプリングの寝台とも大違いなんだ。ちょっと座ってみろよ」 そうすると彼はバネ仕掛けの人形のように立ち上がり、真っ直ぐにこちらへ歩いてきてベッドに腰掛けた。 音もなく沈み込んだ自分の腰に、一瞬ぎょっとしたのか彼の目が大きく開いた。それが表情の崩れた彼を見た、初めての瞬間だった。 「まるでマシュマロみたいだろう?想像していた天国のベッドよりもふわふわしている。気に入ったら眠っていいよ。でも現代のベッドを使ったことがなかったのか?お前は一体どんな暮らしを……」 振り返ると黒装束の男は目を閉じてそこで眠っていた。 途中から薄々そんな気がしていたのだが、ウィンター・ソルジャーである彼は指示をされれば大抵何でも従うようだった。暗殺遂行中以外はその方が扱いやすかったのだろう。彼を使っていた組織にとっては。 僕が氷の下で眠っていた70年、彼はどんな風に過ごしてきたのだろう。もう取り返しがつかない事だがその時間について考えると胸が痛んだ。 ふと意識が遠のいて、目を明けると彼が僕を凝視していた。こんなに集中してものを見ていて彼の目は痛くならないのだろうか。 僕もつられてぐっすり眠り込んでいたらしく、完全に日は昇っていた。 「ええと、おはよう」 できるだけ何でもない事のように、僕はバッキーに食事を出した。彼は普通にそれを食べた。試しにシャワーを浴びろと言えば従ったし、タオルと着替えを出しておけばそれを使った。開けていい場所と駄目な場所を伝えて、トイレの位置を教えると僕のするべき事はなくなってしまった。再び野犬に関して連想するところがあったのだが、それはバッキーに失礼なので考えないことにした。 バッキーには3種類の状態があった。1つはウィンター・ソルジャーである彼。暗殺対象ではなくなったキャプテン・アメリカの住処に潜伏しているという認識なのだろうか。1日中何も喋らず、ほとんど動かなかった。2つめは記憶の混濁している彼だった。彼はよく喋った。ここがどこであるか、自分が誰であるか分からないという訴えが少しと、あとは聞き取れない独り言だった。僕を見て「お前を知っているような気がする」と何度も言った。彼は落ち着きなく部屋の中を徘徊した。3つめは僕の友達のバッキー、彼だった。ほんの数分程、運よくラジオのチューニングが合うように彼は現れて言った。「相棒、なんて顔をしてるんだ。デートで失敗でもやらかしたのか?」眩暈がするほど昔のままの笑顔で。彼には時間の認識がなかった。自分の体が決定的に以前と違っている事にも気づかなかった。ただ2、3言僕と会話をしてふと消えてしまう幽霊のような存在。彼が現れると決まって僕はメランコリックな気分になる。 僕はどの彼にも積極的に話しかけた。 「むかしはもっと青かった気がするんだ。空が」「食べ物が柔らかくなって噛みごたえがない」「機械は便利だけど操作ボタンが小さすぎて上手く押せない」 Mrウィンター・ソルジャーは何も答えず、ただ僕を凝視するだけだった。Mr記憶喪失も同じく無反応。返事をくれたのは陽気なバッキーだけだった。「本当だな。なんだか今日の空は寝ぼけたような色だ。こんなに晴れているのに」「でもジューシーだ。それに色が鮮やかだ」「このままどんどん巨大になって、エンパイア・ステートビルにでもよじ登るんじゃないのかお前」僕は笑いに笑ってバッキーに言った。 「いなくならないでくれバッキー」 くるくると変わるバッキーの表情がやがては虚ろになり、動かなくなるまでの数分間、僕は絶望的な気持ちを味わった。 「お前がいないとつまらないよ」 ウィンター・ソルジャーはいつものように無言で僕を凝視した。 何日か暮らしてみて分かったのだが、Mrウィンター・ソルジャーには困った点が1つあった。それは睡眠中にMr記憶喪失に変身して部屋の徘徊を始める所だ。いや、歩き回るくらいは少しも構わないが、彼は何かから逃げるように狭い場所に潜り込む癖があった。洗濯機と壁の間やベッドの下、本棚の裏、一度などは冷蔵庫に潜り込もうとして力尽きて寝ていた。 バッキーの体にもよくないし、家具や電化製品が損壊するのも困りものだ。仕方なく僕は彼と手を繋いで眠る事にした。 最初はそれに躊躇があった。ベッドは男2人で眠るのに十分な広さがあったしバッキーとの雑魚寝は過去の日常だったので抵抗はなかったが、手を繋いで眠るというのはどうだろうと僕は悩んだ。バッキーはスキンシップが好きなタイプではあったが、さすがに嫌がりそうな気がした。本人の望まないことを意識のない間に強制するのは失礼だ。だからといって紐で繋ぐ訳にはいかない。考えた末、僕は彼の生身ではない金属の左手を握って眠る事にした。これは大正解だった。夜中にするりと彼の手が離れようとすると、夢うつつに僕はそれを握りしめる。しきりに怯えを語る彼に、大丈夫だと囁いているとやがて寝息が聞こえ始める。 ずっと僕の世話を焼いてくれていたバッキーの面倒を、今度は僕が見ているというのは不思議な気持ちがしたが、それは妙に安らかな時間だった。 その習慣が始まってからはMr記憶喪失が夜中に徘徊しようとする回数も目に見えて減った。たとえ夜中にMrウィンター・ソルジャーが突然バッキーに変じて彼を仰天させたとしても、当面僕はこの新しい習慣をやめるつもりはなかった。 バッキーを専門の医者にかければ、あるいは彼の精神状態は飛躍的に良くなるのかもしれないと思う事はある。しかし治療の途中で、おそらくバッキーはウィンター・ソルジャーであった期間の記憶を知る事になるだろう。多くのよき祖父よき父を、または無関係の女性や子供を、手に掛けてきたであろう時間を。優しかったバッキーはその事実に耐えられるだろうか。 同じ立場だとしたら僕は耐えられただろうか。考えてみれば人の手によって体を作り変えられ、国のために働き、冷たい場所で長い時間眠ってきた僕達の境遇は似ている。僕が彼であった可能性だってあっただろう。僕は自らの罪に耐えられただろうか。 「分からないよ、バッキー」 眠るMrウィンター・ソルジャーを眺めながら僕は誰にともなく呟いた。 相変わらずバッキーは部屋の家具のように毎日静かに座っていた。 よく通うベーカーリーで買い物中に花をもらった僕は少し悪戯心がわいて、その紫色の花をバッキーの髪に挿してみた。いつもの如く彼は微動だにせず、じっと僕を見ていた。 頭に花を飾っているバッキーなど、当然これまでに一度も見たことがなかったので一瞬僕はとても愉快な気分になって微笑んだのだが、意識の正常でない人をおもちゃにして遊んでいるという事実に気付いて罪悪感にとらわれ、すぐに髪から花を抜き取った。 もしこれが昔のままのバッキーなら、きっと酷い皮肉で僕をやりこめて、僕は罪悪感を覚えている暇などなかっただろう。その想像は僕に立ち上がれないくらいの強烈なダメージを与えた。 「そんな暗い色の花を黒髪に挿すんじゃない。黒髪なら白か赤だろう。相手が女性だったら「センスのない男」の烙印を押されていたところだぞ」 声さえ聞こえそうだ。僕は膝に顔を埋めた。 「パンを買ってきたから食べよう」 僕の言葉で即刻Mrウィンター・ソルジャーは立ち上がった。動かない僕を不審そうに見降ろしてくる彼の目に、やっと僕も立ち上がる事が出来た。 その後、バッキーが現れる時間は長くも短くもならなかった。彼が出てくると僕は時計に目をやる癖がついてしまった。彼が消えてしまう前に少しでも長く彼と笑いたかったし、伝えたいことも沢山あった。混乱した僕は、ついはしゃいでしまって彼に冗談ばかりを言っていたけれど。バッキーは陽気に応じてくれた。 「うるさいぞ、このモヤシ野郎」 「言ったな。これでもモヤシか」 僕はバッキーの右手を引っ張り、力を入れて膨らませた胸筋の上に置いた。95歳の男のやることではないなという客観性は一応持っていた。 「失礼、モヤシじゃないな。巨乳のかわいこちゃん」 「こいつ!」 「ステファニーちゃんだ」 「じゃあお前はジェーンちゃんか」 僕は笑いながらバッキーの発達した胸筋に拳で触れた。2人で散々笑って、お互いの顔を見てまた再び笑った。バッキーが僕と目を合わせて、笑顔から微笑になり、そして形容しがたい表情になって言った。 「あそこは寒かったから」 なにか別の冗談だと思って僕は尋ねた。 「どこだよ?」 バッキーは目を伏せて囁いた。 「血管が締まって出血しなかった」 「・・・・・・」 「血清と気温のおかげで俺は助かったんだ」 咄嗟に言葉が出てこなかった。 聞きたい事は無数にあった筈なのに。お前はどんな年月を過ごしたんだ?一体どこにいた?どの程度の記憶がある?今の環境に不満はないのか?これからどうしたい?でも何が言えただろう。そんな質問に何の意味がある。 「バッキー……」 「すまないスティーヴ」 「謝ることなんかない。一緒にいてくれたらそれで」 「ずっといるさ」 「お前はすぐにいなくなってしまう。いつも」 「ずっと一緒だ」 優しい声でバッキーは言った。「それとな、スティーヴ」 「黒髪に花を挿すなら赤か白だ」 やがて友人の暖かい笑みは薄れ、僕の目の前で彼の表情はみるみる凍りついていった。こちらをじっと凝視してくるのはいつものMrウィンター・ソルジャーの目だった。 僕の体は超人血清を打たれて、平均の何倍も代謝が高い。体力に優れていて、気温や気圧に強い。ある程度の毒にも薬にも耐性がある。酒には酔わない。血中酸素濃度が高い。心拍はゆっくりで体温が高い。髪も爪も伸びるのが早い。 だからこんなにも沢山涙が出るのだ。僕は思った。 子供のような大粒の涙が幾つも床に落ちるのも、涙が止められないのもきっと代謝のせいだ。 次の朝、気持ちを切り替えようと決意した僕は、起き上がって顔を洗いに行こうとした。そうすると何故かMrウィンター・ソルジャーがずるずるとついてきて彼はベッドから落ちてしまった。俊敏な彼らしくもなく、その姿はクマのぬいぐるみより無力だった。僕が手を握ったまま引っ張ってしまったのかと思い咄嗟に謝ったが、実際は逆で彼が僕の手を強い力で握ったままだったのだ。「左腕の内部エラーだ」簡潔に事実だけを彼は告げた。要するに腕の機械の故障で指を開けなくなったという事なのだろうか。この家に来てMrウィンター・ソルジャーが初めて喋った言葉がたったそれだけ。地下のあの巨大なコンピュータの方が、今のバッキーよりよほど多弁だった。 僕の腕力でバッキーの指を一本一本開くことは可能かもしれないが、彼の手を壊してしまってはいけない。僕の手を引き抜こうとしても引き抜けない。なので結局僕は片手で2人分の簡単な朝食を作り、片手でそれを食べ、この状態ではバイクが使えないので片手でチケットを買い、地下鉄に乗った。そしていずれは彼の腕のメンテナンスを依頼するつもりだったスタークの家に向かった。バッキーと手をつないだまま。 久しぶりに会ったスタークは少し青い顔をしていて様子が変だった。「すべてのSNSが炎上している」と彼は言った。SNS?炎上?事件の話なのか。 「キャプテン・アメリカが部屋着で、黒髪のハンサムと手をつないでデートしているそうだ。公共機関を使って来たのか?」 「ああ、うん」 他に返事のしようがなくて僕は頷いた。先程の炎上事件とは違う話題なのだろうか。昔に比べると現代の会話はテンポが速い。 「血のリア充テロと言われている」 申し訳ないがさっぱり意味が分からなかったので、僕は眉をあげてバッキーと繋いでいる右手をぶらぶらと揺らした。相変わらずバッキーは無反応だった。スタークの顔色は一段と悪くなった。 |