「誰もいない国」 ハロルド・ピンター作 初演1975年 舞台劇。ナショナル・シアターライブで見る事ができました。 富豪の文学者ハーストが、バーで知り合った貧しい男スプーナーを 客人として部屋に迎え入れるところから舞台は始まります。 とりとめなく話す初老の男2人。 しかし翌日になるとなぜかハーストはスプーナーをチャールズと呼び、 学友として扱います。スプーナーも思い出話に応じ、 互いのスキャンダラスな過去を暴きあったりする。 その家にいる秘書の青年と執事も現れ、 どこか不穏な彼等の会話は続きます。 よく分かりませんが不条理劇なのだと思う。 ピンターの愛読した作家陣の中にベケットの名前があるので。 年老いた詩人2人をイアン・マッケランとパトリック・スチュワートが演じます。 当たり前ですがさすがの名演だった。 サー・イアンの、年齢以上に老け込んだ呼吸器を悪くした人の喋り方、 サー・パトリックの、興が乗ったきらきらした目と、ぼんやりとした虚ろな目のギャップ。 解釈・内容ばれ 芝居後のディスカッションも見られたのですけど、 サー・イアンの解釈は、すべて現実ですべて存在している。 サー・パトリックの解釈は、ハーストは認知症である(幻覚の可能性?)。 司会の方は、死の待合室であるという解釈があると仰ってました。 これといった正解はないのでしょう。 私はタイトルが誰もいない国なので、素直に誰もいないんだろう、 つまりハースト以外は存在しないんだろうと思ってましたが、 (詩を書く人が多すぎる。全員に同性愛的な雰囲気がある) リンチの「マルホランド・ドライブ」のように、1幕目が現実で 2幕目がスプーナーの理想の世界なのかもなとか、後になって考えました。 序盤から客席に笑いが何度も起こって、 なにがジョークなのかも分からなかったのですけど、後で調べると ハムステッド・ヒースが所謂ハッテン場のような場所で、 そこを散歩するというセリフが受けていたようでした。 要するに「2丁目を歩いてた」ってことなのかな。 しかし1975年には先鋭的なジョークだっただろうけど 21世紀の客が笑うようなねたかな?とは思いました。 ハロルド・ピンターの舞台劇を見るのは初めてですが、 2007年に脚本を書かれたリメイク版「スルース」は見ていて、 (その翌年亡くなられている) ゲイ文化に並々ならぬ関心のあるかただったのだな…と思いました。 舞台の最後に、1度変えた話題は、もう変えられないという事実が ぞっとするような雰囲気の中で告げられるのですが、 あれは何を意味するんだろうと、ふと考えてしまいます。 あ、でもサー・イアンの「全部現実の、普通の会話劇」という解釈も好き。 2018.08.21 サイトに掲載 2019.01.01 再掲載 戻る |