「スリー・ビルボード」 マーティン・マクドナー監督。 ミズーリ州の架空の町エビング。 娘を、暴行され殺され焼かれた母親が、捜査が進展しない事に業を煮やし 娘の遺体が発見された道路沿いの看板3枚の広告料を支払い、 娘を殺した暴行魔が捕まらないのはどういうことだと 保安官を名指しで糾弾するメッセージをあげた。 保安官を尊敬する田舎町の人々は母親に対する嫌がらせを始める、というあらすじ。 悲劇の母親が娘の復讐を遂げるとか、クズ警官が痛い目にあってざまあ!とか そういう映画ではなく、むしろテーマは勧善懲悪とは逆方向なので 楽しい気分になるエンターテインメントを求めていくには不向きな映画です。 登場人物の立ち場が、感情が、観客の持つ印象が、怒りと赦しの配分が、 どんどん覆っていく様子は、将棋かチェスの名勝負を見ているようでした。 脚本が緻密だったし、役者さんもそれを受けてすごい仕事をなさってた。 特にフランシス・マクドーマンドさんの演技。 私は監督の「セブン・サイコパス」が好きなので 今回もああいうテイストだと思っていたのですが、全然違いましたね。 ブラックなジョークはちょっとはあったけど。 この映画はnot for meだったので前作の方が好きです。 内容ばれ 主人公はイーストウッド映画のイーストウッドが女体化したらこんな感じでは?という めっちゃタフな女性だったので、ちょっと気持ちが楽だった。 娘さんの事は同情するが、看板については街の人全員が困っているって言いに来た神父に カトリック教の神父が子供を強姦してたみたいだけど、 ギャング法でいったらあんたも同罪。とっとと出ていけ!って啖呵切ったときも、 歯の治療に行ったら「保安官の味方だし!」って言いだした歯医者の指にドリルで穴をあけたときも、 中身入りの缶を車に投げてきた青年の股間を蹴りあげた時も、 まあスカッとした事は確かだった。 警察署全体的に署長以外は、ろくでもない差別主義者のホモソーシャルクズなので、 署ごと燃やしてしまえばいい!って思ってたら主人公が本当に火を放ったのでお前は私か!って思った。 でもそのせいで彼女は、物語の多くの鑑賞者が望む「完璧な被害者」ではなくなってしまったけど。 麻酔の効いた口で「歯医者とか行ってない」って言ったり、 最高にホットな志村―!うしろうしろー!とか、 監督の持ち味のブラックジョークがあるにはあったけど、 緊張が強くてあまり笑えなかった。 署長には、せめて「わしが支払った!」って新聞に告知とか出してほしかった。 いいひとでお気の毒だったけど。 登場人物大半による、事態を悪化させるための、 息の合ったコンビプレイを見せられているようだった。 ケイレブ・ランドリー・ジョーンズさんのオレンジジュースのシーンからそれが逆転して よい連鎖になっていくんだけど、あそこの演技もまた良かったのと、 あと天使が田舎で広告会社やってたのかよ!?っていう聖人っぷりでびっくりしましたよね。 ていうか同室にすんなし。 not for me理由(映画のテーマとは真逆の冷血な意見) 癇癪持ちの発作的な怒りと、理不尽な暴力を受けたときの怒りを マジカルな演出力でひとまとめにしないでほしい。 完全な被害者などいない、加害と被害は混沌としているというなら、 後者については同意しかねる。 「デトロイト」で、規則を破って有色人種を1人射殺した警官が 人手不足でそのまま普通に職務に当たっていて事件を起こした(史実)ときも 「????」だったけど、 この映画で、まったく何もしていない市民のオフィスのドアを叩き割って 警官が侵入し、経営者に殴る蹴るの暴行を加え、2階の窓から落とし、 女性社員の顔面を殴って、目撃者もいて同僚も察しているのに そのまま警察署で勤務しているのを見て、 これは英国人監督の描く誇張された南部なのか、 それとも本当に現在も南部の田舎はこんな風に司法がガバガバなのか?と思いました。 (ミズーリ州は南北の境界州だけど) ホラー映画の定型「田舎ホラー」に通じるところがあるんですが、 根はいい人達なんだけど、みんな自制心がなく激情にかられやすく すぐに暴力に訴えるのはちょっと怖かったですね。 焼き打ちや略奪や魔女狩りを今でもノリノリでやりそうな印象だったけど アメリカ白人貧困層はこの映画を見てどう思うんだろうか。 モラルのレベルと情緒の安定は体型のようなものだと私は考えるので 尊敬している人からの手紙くらいでは何も変わらないと思う。 体重100キロの人が明日から体重40キロになろう!って決意しても実質無理なのと同じ。 そりゃ年単位で努力して、リバウンドを克服できる人はいるかもしれないが、 サム・ロクウェルさん演じる警官はそうなのか?という話。 2018.02.04 サイトに掲載 2019.01.01 再掲載 戻る |