「バードマン あるいは (無知がもたらす予期せぬ奇跡)」 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督 アカデミー賞監督賞、作品賞、撮影賞、脚本賞を受賞。 主人公は俳優で、20年以上昔「バードマン」という 人気スーパーヒーロー映画で主人公を演じるスターだったが 今は落ちぶれ、妻にも去られ、世間から忘れられようとしていた。 しかしカーヴァーの舞台劇に私財をつぎこみ、 ブロードウェイでアーティストとしての再起を目論む。 というあらすじ。 最初からラスト付近までほぼワンカット風に撮影してあって、 それはまあCGや様々な技術が駆使してあるのでしょうけど、 でもワンシーンは確実に普通の映画より長かっただろうので、 綿密な打ち合わせとリハが必要だったろうなと思います。 演技もセリフも顔の向きすらもアドリブ厳禁だったらしい。 そりゃ移動が数秒遅れたら後ろのパートの人の段取りが狂うものね。 落ちぶれて精神を病み始めている主人公が見る、 異形のバードマンの幻覚や声、 こちらの精神まで削られる気のするドラムの音、 互いを食らい合うようなマイケル・キートンとエドワード・ノートンの演技。 逃げ場のない迷路みたいな舞台裏の通路をひたすら歩く姿が ノーカット風に撮り続けてある閉塞感、 控室を移動するたび青に赤に白に変わっていくライトの色彩。 すごい技術の高さと完成度でした。 ただしエンタメ映画とは違うので、行楽には向かない。 カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」を 読んでいなくても平気だけど、読んでいると考える選択肢が増えます。 あと1989年のバットマン2作を見ていると悲壮感が増す。 見なくても、マイケル・キートンがバットマンの主役を2作務めて、 そのあと降板して他の人に引き継いだ事を知ってればOK。 オチばれ (といってもハッピーエンドか悲劇エンドか?ですら意見の割れる映画なのであくまで私の意見です) 最後のシーンは現実だよ!派と、あそこは現実じゃないよ!派がいます。 現実だよ!派でも、ラストカットは死だよ!派と、メタファだよ!派がいます。 たぶん真面目に調べたらさらにもっと細かく分かれる(笑)。 主人公の超能力が、中盤で妄想によるものと判明するのですが、 あの空中浮遊が終わった後でタクシー運転手が料金払えって追いかけてくるのとか 視点がプロデューサーに変った途端、主人公が手を使って物を壊しているのとか、 すごくスマートな演出だったので、 (共演者の怪我も、ああ超能力(物理)かーって類推させる。うまい) なので私はこの映画の映像に映っているものはすべてリアルか妄想のどちらかだと思うんですね。 でも主人公は愛されゆるふわ欲求と承認欲求から解脱できたんだと思う。 映画を見てびっくりしたのは、 舞台人は本当に映画人をあんなに見下し憎んでいるものなの…? ということと、 あと「愛について語るときに我々の語ること」の舞台劇、 テディの拳銃のシーンがラストみたいなんだけど、一体どういう話になったの!? ということです。 カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」の 上っ面を撫でて言語化すると、 人それぞれ愛情というものは違うが、人はそれを追わずにはいられない という感じになりますが、 この映画のテーマに、小説が絡むか絡まないかによっても かなり解釈が変わってきます。 (最後で主人公がまさに顔をガーゼで覆われているし、どうだろうか) でも愛情がほしいのと承認欲求は違うし、 そもそも手をつけた年下の女優は愛としてはノーカンなのかとか、 だいたいこの主人公、自分の話をするばかりで 自分の受け皿の役目以外の元妻や娘に興味があったようには見えなかったけど、 家庭は一方的な愛情供給装置ではないし、 娘の財産になる予定の不動産を自分の夢のために抵当に入れて借金やら 結婚記念日の浮気やら色々あるので、 とうとう最後には家族から愛情を得て満足できた、とは思いたくない。 ダブルおちばれを防ぐためタイトルは書きませんが ダーレン・アロノフスキー監督の例の映画と重なる部分があります。 あっちの方が悲壮度1.5倍ほどですが、 それは主人公がうんと若いのと、あと真面目な気性の女性だからだろう。 至高の演技を目指すのと世間に認められるのを目指すのは違うので その点はバードマンの方が人物が不純。 でも「バードマン」は表現者たちの外側の 批評家や観客やインターネットユーザーも映画内に取り込んでいるので、 一層ぶん世界が広い。 あと余談ですが、X−MENとアベンジャーズの準備期間がかぶってるって、いつだ(笑) 2015.04.13 サイトに掲載 2015.12.30 再掲載 戻る |